運痴よ死ぬな!

運動音痴は何かとつらいこと多い。つらい時期を振り返って、今どう生きているかを書いてみる。

「お父さんの予定」

父親は自分の予定と違うことがとても不快に感じる人だった。
「お父さんの予定にない」という理由でいろんなことをあきらめさせられたし
自分のしたいことや得意なこととは全然違うことを求められて子供時代を過ごした。


そもそも私が男に生まれなかったことが「お父さんの予定にない」」ことだったのだろうと思う。


私の生まれた田舎は生まれたのが男の子でなければ舅も姑もがっかりするし、その結果母もがっかりされた原因の私をかわいいとは思えなかったのかもしれない。


幸い3年のちに弟が生まれてくれたのでよかったのだけれども、先に生まれてしまったハズレの私は「出ていく子」「人にあげる子」と言われて育った。


トイレットペーパーがもったいない、歯磨き粉がもったいない。生きているだけで金がかかるって言われて、電気代がもったいないからドライヤーも禁止、水がもったいないから朝シャンも禁止。


顔がひどいニキビだらけになっても医者に連れていかれず、アルコールで拭き取ればいいとか、クエン酸で拭けばいいとか言われた結果、50歳の今でも顔はただれたように真っ赤で人生いろんなとこでこの顔に苦労させられた。今だって初対面の人にいじられたりしてる。


後に私が二人の男の子を生んだ時も、二人目が障害児だったからか「一人男の子が生まれたのになんで二人産んだんだ!」と怒られた。まあ、はっきり私がハズレだったといったようなもんです。


「出ていくまで」「人にあげるまで」父にとって都合のいい子であることを求め続けられていたように思う。その「お父さんの予定」がどんな子なのか具体的に示されたことはないけど、その時々に求められるいい子の像は、一人の人間に押し込むにはつじつまの合わないオリンピックに出てノーベル賞を取るような全く方向性が違う上に不可能なエネルギーがでないと成しえないような荒唐無稽な願いであることが多かった。


もちろんそんな期待に応えられるような才能に恵まれた私でもないので、結果「お父さんの予定」にない「ダメな子」として育つことになるのである。


そしてそのお父さんの期待の中には、運動のできる子っていうのが入っていた。
弟は運動のできる子で、日本で何位っていう順位がついたときはとても喜んだ。
それに比べて私は。。。って言われたっけなー


運動会には足が遅いことや体格的に劣っていることをすごく責められた。
体格よく産まなかったことを母も責められていたし、足が速くないことに突然アドバイスしてきて、その通りにできないと殴ってきた。


子供心に、突然怒ったってアドバイスしたって良くなるとは思えなかった。
毎日の食事に気を付け続けることも、結果が出るまで走る練習をすることもなく
偉そうに「継続は力」だとかいう父親を信じることはできなかったし


人にあげる予定の私の体格を良くするためにお金をかけてよい食事をさせるわけもないくせいに何言ってやがるんだと思っていた。


そして、自分が好きで他の子より得意なことがあっても、それがお父さんにとって価値のある分野じゃないから全く褒めてくれることも伸ばしてくれることもなかった。
そんなことできても食べていけないって放り棄てられただけだった。