運痴よ死ぬな!

運動音痴は何かとつらいこと多い。つらい時期を振り返って、今どう生きているかを書いてみる。

やればできる人もいるけど、

やればできる人もいるけど、
やらないでもできちゃう人もいて、
やってみて、できないということが分かることもある。
と今の私は思っている。


でも、なんでか学校ではやればなんでもできるかのような
できないのはやってないからだ、努力が足りないという
本当かどうか怪しい教えが横行していた。
そして私もそれを鵜呑みにして、できるようにならない自分を責めていた。


でも、自分の力では変えようのないことや、
いつかはできるにしてもできてほしい時に間に合わないこと、
変えることができるとしても変えてはいけないこと
いろいろある。


以前になわとび大会のことを書いたけど、
小学一年生の冬、自分以外全員が二重跳びをできるようになっていたころ
ようやく私は普通前跳びをできる程度にはなっていた。


二重跳びができるようになったのは、五年生の秋だった。

これはできてほしい時期に間に合わないに該当すると思われる。


脳科学の何とか先生がテレビで言っていたことには
「人間はだいたい200回ぐらいできないと、『これはできないらしい』と判断する」
らしいです。


もし、そうだとしたら5年近くで私が繰り返した二重跳びの失敗は
絶対に200回ぐらいではなく、


失敗回数マイナス200回は努力なんじゃないかなーと思う。


胸を張れるほど一生懸命やったわけじゃないから他の子が1年生の時にあったであろう体力がついて、要領をつかんだのが私が5年生のときということなんじゃないかと思う。


これ、学力だったら要支援では?と思う。


一年生の時にできないことをからかってきたやつらは私ができるようになったことに
気づきもしなかっただろう。バカにするときだけ関心があるクソ野郎どもである。


他の子はこんなに「できない」を積み上げないでもできたはずだ。


私は5年生まで努力しないでいたからできなかったてわけではないはずだ。


でも、私ができるようになる曲線がこういうことで
私自身に「できるようになりたい!」とか「できなくても面白い!」とかいう熱い思いがないならば、


今のところ体を動かすことについては時間の無駄以外の何物でもないと
ほんとに思った。


国語や算数ならできないでも大丈夫。できないことをみんなに公表されることはありません。むしろ先生も本人の名誉のために隠してくれます、
通知表やテストの順位を個人名公表するなんてまずありえません。


音痴ならクチパクでやりすごせます。楽器も一人ずつできないチェックをされることは
そうそうないでしょう。


美術や書道に至っては全てが趣と味わいで優劣の感覚はないぐらい。誰が下手でも連帯責任でもう一度やりなおしになったりすることはありません。


なのに、体育ですよ。


週3?、週4?で自分ができないやつだと確認し続ける。


自分でも自分がイヤになるのに、無神経なクラスメイトまで口に出していってくる。
先生までがんばればできるだの言ってくる。

がんばっとるわー


これ、大人だったらパワハラだって労基に駆け込む案件だと今は思う。できないできない確認し続けたら病むわ。


そもそも、先生は教えるくらいだから私ほど苦しんで体を動かせるようになった類の人ではないでしょうよ?200回以下でできた人やろ?


できた人は、できない理由など分かりっこないから、だいたい先生の方が私より先に考え込んで、私より先にあきらめるんです。


200回もトライしてくれた先生いたっけな?

やればできるんじゃなくて??


「あれ? なんでできないんだろう???」

先生たちの混乱を見続けてきました。



そして、だいたいの場合、肩幅ぐらいに足を広げたら良いことと、脇は何でもかんでも閉めた方が良いことと、掛け声はなんでか1,2,3だということだけは分かったけど、


一向に結果がでないで、時間切れまでさらし者になるのです。
あーやだやだ。大人になっても体育を思い出すだけで、文字を打つのが速い速い。
とめどなく、拗らせストーリーがでてきてしまう。